近代美術の不可思議、‘キュビズム’を分析

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キュビズムの歴史

路上でしがない画家をしていたピカソからすべてが始める

キュビズムについてその進化を発揮するようになったのは近代のこと、それまでにおいて芸術とは等しく、人には理解出来ない世界で構成されているからこそ美とする、そんな風にも見られていたものが好まれていた。抽象派とでも言えばいいだろう、それらがフランスなどの文化において正しくも美しい文化であると認識されていた。ただ芸術の可能性はそうした1つの固定観念によって限定的に定めることが出来ない文化だ、だからこそ創造という言葉は現代にまで引き継がれ、創り出すことに情熱を注ぎ込む人が手に職として生計を立てる業界も成立している。キュビズムもその1つの可能性の中から生まれたものだ。

特にキュビズム芸術の始祖的存在といっても過言ではないピカソの存在は偉大だ。彼は最初から著名な芸術家だったわけではない、有名な話だがピカソもまた当時は売れない画家として路上で絵を描き続ける日々を送っていたという。その中で彼はただ自分が描きたかった物を描き続け、その結果後世によりその価値を認められた。生前、彼の描いた作品を見て批判した友人もいたといい、知り合いの一人はいずれピカソは自分自身を追い詰めて、その命を絶ってしまうのではないかと、そんな心配をしていたという。

キュビズムは当然、当時の芸術文化において極めて異端だった、それがどうして高名な芸術作品として崇められるようになったのか、そこには芸術家ならではのプライドも少なからず関係している。

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文化の誕生、そして伝統へ

ピカソは紛れもない天才だ、そう断言して問題ないはず。絵こそ命題となるテーマを見出すのがとても難しいものとなっているが、物を作り出すという点においてこれほど才能に溢れている人は当時としても珍しかったはず。実際、彼の絵画を人前では批判する立場にありながら、その類稀な芸術センスには一目置いていた一人の芸術家がいた。

『ジョルジュ・ブラック』、彼もまたのちにピカソと並ぶキュビズム文化の立役者として、文化開明への道筋を建てることになる発起人となる人物である。彼は当時、ピカソが初めて描いたキュビズム作品について、『三度の食事が麻クズとパラフィン製になるといわれたようなものだ』と糾弾する。その場面では作品をこれでもかと否定したが、ここには画家として、そして芸術家としての才能との違いに圧倒され、嫉妬して素直に褒められなかった一人の男としてプライドが出てしまったと見るべきだろう。ピカソという人間が自分なんかとは明らかに違う、彼はどうしてこんな凄い作品を創れるのだろうかと葛藤したのかもしれない。ただ同時に彼の存在はブラックという一人の画家としての情熱を傾倒させるには十分すぎる存在であり、ピカソと並んでキュビズム文化の始祖と呼ばれるほど、影ではピカソに並んで作品制作に追われていたという。

一人の天才と、一人の努力家が共に切磋琢磨したことによってキュビズム文化はその歴史を辿ることとなり、またその軌跡をブラックが己の武者修行とする旅の中で発揮されていく。ブラックはその中でエスタック地方に訪れた際、近代画家の父とも呼ばれている『ポール・セザンヌ』にあやかって『セザンヌ的キュビズム』なる7点の作品を描きあげた。この作品は後に批評家である『ルイ・ヴォークセル』に、『ブラックは一切の立方体を還元する』と表現し、これが現在のキュビズムと言う言葉を生み出す起源となる。

起源はピカソ、貢献はブラック

こうしてみるとキュビズムという物は2人の画家によってその基礎が形成されたと分析できる、それも一人は生みの親である作品を表向きは批判する立場に最初は回っていたという。そしてそんなブラックがピカソという友人に感化され、画家として一皮向けることに成功、その後の絵画修業においてキュビズムをフランスにおいて芸術作品の1つとして広めることとなった。

美味しいところを横取りしているのではないかと見られるが、もちろんそれも少しは感じられてもしょうがない。ただピカソとブラックの2人は共に、キュビズム芸術についてお互いに協力し合いながら研究に研究を重ねていくことになる、だからこそ現代における絵画芸術の技法として語り継がれている。

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世間に知られた瞬間

ピカソとブラック、2人の画家によって芸術価値は高められていき、やがて芸術に関わる人々に影響をもたらしていく。そんな中で、キュビズムが世間一般へと認識されるようになったのが1911年に開催された『アンデパンダン展』という、フランスでも指折りの有名な芸術展において発表された。

展覧会が開催されたとき、キュビズムを信奉している画家たちによって構成された一団『ピュトー・グループ』によってキュビズム作品のデモンストレーションが開催される。無理半ばといった所だったこともあり、また作品そのものの難解さに訪れた人々は、こぞって誹謗中傷を繰り出した。しかし、これはあくまでパフォーマンスの一つだったと現在では知られている。そもそも始めからキュビズムと言う文化は受け入れられないだろうということを予期していた一部の画家達は、インパクトさえ残してその記憶に残しておければそれで良いとまで考えていたのかもしれない。それが功を奏したのか、翌年からも有名な展覧会でキュビズムを発表する催しが開かれており、それによって『キュビズム非難演説』なるものまで開かれていたという。

しかしそうした行動も続くのは最初の内だけだった、徐々にピュトー・グループの活動そのものは停滞していき、参加していた才能ある芸術家達は別の道を歩き出すなど、団体としてはほぼ空中分解に近い状態に追い込まれる。現代風に言うならば『炎上商法』に近いものだが、それが長い間継続するわけもないため、限界を迎えた結果として1つの区切りを迎えることとなった。

しかしこうした活動によって、最初こそ非難されるしかなかったキュビズムだったが、後にその価値を正式に認められるようになったことを考えれば、存在を知らしめるという意味では成功したといえる。現代でもそうした炎上商法は行われているが、キュビズムのように真の意味で成功している例は少ない。