近代美術の不可思議、‘キュビズム’を分析

1

キュビズムの本質

そこに何を見出すのか

キュビズムは作品をただじっと見つめているだけで、その全てを知ることが出来るというにはあまりに難しい。1つの物体が分解され、元が何だったのかすら認識できないほどにバラバラにされたそれを見ても、その意味は誰に届くわけでもない。そしてそれを見る大半の一般観衆においては決まって、酷い作品などと揶揄されるだけだ。その点については散々述べた、また作品を何度見ても理解できないという人に共通しているだろう。

しかしそれではあまりにキュビズムに対して批判的過ぎる、もしくは作品への理解・関心が薄すぎるため、考えとして甘い。ではどういった視点から見ればキュビズムをもっと捉えることが出来るのか、作品に込められたその本質を垣間見ることで少なからず、ただ誹謗中傷されるだけの作品からは脱出できるだろう。それを知るための手段には、歴史について話した中で紹介した言葉の起源において用いられた『一切の立方体を還元する』という言葉から、キュビズムと呼ばれるものの本質を垣間見れる。

2

三次元と二次元の隔てる大きな壁

キュビズムは立方体を還元すると固定されたものだが、キュビズムという芸術はその意図は実のところ全く正反対の概念となっている作品であるというのを知ってもらいたい。一見すると確かに1つの作品の中に、立方体がいくつもひしめきあっているかのように見られているが、それはただ作品を表現するためでしかなく、キュビズムによって訴えたかったのは、『三次元に存在している物事を二次元に表現する試み』というものだからだ。

ただキャンバスに三次元のモノを描くという技術ではなく、三次元を二次元の世界において展開することで、それらを本質から理解してもらいたいのが作者の希望だ。つまりピカソにしても、ブラックにしても、キュビズムによって何を理解して欲しかったのかという理念については、そこには『世界に存在するあらゆる事物の本質を理解する』ためにキュビズムという手段を編み出したと言われている。

表現される作品こそ難解だと意味を取られがちだが、本来は物事の本質を分かりやすくすることで理解してもらいたいというのが、2人の願いだった。どうしてそんなことをする必要があったのか、それはどうしても見落としがちな裏側の部分を表現するに当たって、分解するという技術が最も最適だったからだ。

サイコロを例にして考える

キュビズムを分かりやすく説明する材料として、サイコロを例題とする事が良くある。どんな風に用いられるのかというと、サイコロを絵‘だけ’で説明しろと言われた際にはどうしても、多くて三面でまでしか説明できない人が多いという。三次元では裏側まで表現できない、ならばと二次元におけるサイコロの分解図であればそれで本質を理解できるだろうと見られがちだが、それも若干異なっている。

その中でキュビズムを利用することにより、三次元の物事を二次元で表現するために分解し、そしてそれを元の形に組みなおすことによって、対象物の本質を見出せるようになるだろうと考えられていた。当時はそういった原点を築き上げようと試みられていたが、結局はキュビズムと呼ばれる作品の大半はただ見るだけでは何かを理解するといったことが出来ない作品になってしまったため、芸術における功罪といえる。

3

功績として

一見するとキュビズムによってもたらされたのは、更に常人には理解することの出来ない芸術を複雑怪奇にしてしまったという見方も、ここまでの流れで思ってしまいがちだが、あながちそうでもない。キュビズムの作品こそ、それが持つ本質を読み解ける手段としては良いとしても、それ以上に芸術の世界における革新的なアイディアとして取り入れられ、後にそれが『モダンアート』と呼ばれる芸術の形を生み出すことへと繋がっていく。

どんなものでもアートにすることが出来る、またはなれるという概念を作り出した事によって、現代でもオリジナリティ豊かな作品が多く誕生している。ただ純粋に古代から受け継がれている絵画を始めとした芸術の世界で、伝統的に受け継がれている技法はもちろんのこと、時代を経ることで生み出された新しい文化的芸術作品が登場することへも繋がっていった。

キュビズムという絵画作品を理解できないとしても、それは無理がない。結局本質を理解するどころか、そこから更にかけ離れた場所へと誘われてしまうこともあるため、そこはピカソにしてもブラックにしても読みが甘かったといわれても仕方がない。ただ彼らが作り出したこのキュビズムによって芸術の世界に革命をもたらしたこと、それだけは曲げようのない真実だ。