近代美術の不可思議、‘キュビズム’を分析

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キュビズムとは何か

セザンヌとピカソ

ここまでキュビズムについて考察を加えながら述べてきたが、これでキュビズムのすべてを理解することが出来た、ということはないだろう。そもそもキュビズムというものを真に理解している人間がいるとするなら、それは作者ただ一人だけのはず。ピカソにしても、ブラックにしても、物事の本質を理解してもらう手段として用いたはずの手段は、現代においてもあまりに前衛的な作品であると捕らえている人が多い。特に日本人にしてみれば、海外の画家が描いた美的センスを理解できるほど懐事情はそこまで広くない。実際、キュビズムほど難しいものはないと認識することも出来るのではないか、また皮肉的に日本にある漫画作品などでも度々こうしたキュビズムが持ち上げられていることがある。そのほとんどが、意味難解で理解できないといったものとして扱われている。

無論それは1つの偏見でしかない、絵画というジャンルで考えればピカソが残した功績は世界的に見れば彼が唯一無二の師として崇めているセザンヌと同様、その才能を遺憾なく発揮した形がキュビズムとなっている。そうしたことも加味してまとめてみようと思う。

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キュビズムの難解さ

歴史や芸術観による派生運動といったように、様々な側面でキュビズムと呼ばれる物は大きな転機を迎えることとなる。チュビスムにオルフィスムといった運動も展開されるなど1900年代初頭になっても西欧諸国では決まって文化活動が盛んに行なわれていたことも、大事な一幕だ。しかし、キュビズムを原点とする運動の大半が全て長い期間行われていたわけではなく、ほぼ5年程度で活動終了を向かえているのも、ある種の特徴といえる。どうしてそこまで運動が継続しなかったのかというのは、やはり世間的に見れば当時としてもあまりに斬新な作風だったことが影響している。

その後正式に認められることになるキュビズムだが、それ以外の運動については美術史を勉強しない限り、あまり学生の授業で取扱う題材でもないだろう。マイナーではあるが、それでも重要な曲面を持っているため、プロ視点から見れば外してはいけない派生の流れを分析することも大事なこと。そこから何を見出すかは個人の見解に委ねられるところだが、それがあまりに原点から逸脱するないようになってしまっては、それだけで活動意義を見失ってしまう要因を生み出すだろう。

数年足らずで終了し、そのほとんどが大成する事無かったという点もそうだが、それ以上にキュビズムという近代美術の代表作があまりに異彩だったことは認める必要がある点だ。そういう意味では分派として流れが出たレジェなどにしてみれば、芸術家として確かな成功を残している点はさすがといったところだ。彼のようにピカソ達が作り上げたキュビズムとも違う、独創的な作風を作り出し、世間に認知されただけでもありがたいことと見るべきだろう。

キュビズムに何を見出すか

こうして現代にまで語り継がれることとなったキュビズムだが、その芸術観から一体何を見出せばいいのかと考えたとき、その理想はどこにあるのか。やはり一般的な意味で作品の良し悪しを考えればそれに越したことはない、ただ素人が2つ並んでいるキュビズムを理解できるかと聞かれたら、大半が無理と答えるだろう。知識を持ってしてキュビズムを理解出来たとしても、その知識を活用することで作品に込めらえた物事の本質を読み解けるとなったら話はまた別だ。

キュビズムについては今後も多くの専門家たちを悩ませ、一般大衆においては人生の疑問として提唱されるテーマとなるはず。いつの時代も優れた芸術とは悩ましいものではあるが、文化とすれば発達できる材料が用意されているほど、熱が上げられるのかもしれない。

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